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クラウンとピエロ(3)

クラウンとピエロ(3)

 ピエロはペドロリーノ

 「ピエロ」は、イタリアの仮面即興劇「コンメディア・デッラルテ」のストックキャラクターが祖であるという説が有力なようです。「ストックキャラクター」というのは、「性格・服装・仮面・演技スタイルなどに類型的な特徴を備え」(Wikipedia「コンメディア・デッラルテ」より引用)た登場人物たちのことです。
 またまた余談ですが、ニューヨークから来たクラウン集団のワークショップを受講したとき、このストックキャラクターを演じさせられました。本来は仮面や衣装、小道具などをつけて演じるもののようですが、このときは仮面も衣裳もつけず、カードに書かれた一つひとつのキャラクターの性格を表現する課題でした。もちろん初心者には難しい課題でしたが、型があることによって、逆に思い切り変身でき、日常の自分を解放できることが楽しかったのを覚えています。さらに脱線しますが、何でも自由がいいという考えには私は反対です。少なくとも想像力もエネルギーも漠とした自由な環境より、ある程度制限され、型が決まったものの中にいた方がふくらむ気がするのです。特に子どもの環境においては、制限や型への反発、反逆こそが何か新しいもの、独創的なものを生み出す大きな力になるはずです。脱線ごめんなさい。
 さて、ストックキャラクターの主役は召使いたちです。特にアルレッキーノ(フランスではアルルカン、イギリスでハーレクインという名称で知られています)が有名ですが、「ピエロ」の名称と起源となったのは、その中のペドロリーノ(Pedrolino)というキャラクターだそうです。イタリアからフランスに輸入され「ピエロ」と呼ばれるようになりました。本来アルレッキーノが担っていた喜劇性を、アルレッキーノが芝居の主役になるにしたがい、いくつかの役に分けざるをえなかったそうです。その1つがペドロリーノです。

 『天井桟敷の人々』のバチスト

 このようにコンメディア・デッラルテの影響がある一方、やはり決定的なイメージとなったのは映画『天井桟敷の人々』(1945年/マルセル・カルネ監督)で描かれた実在のピエロ役者、ジャン・バチスト(ガスパール)・ドゥビュロー(ジャン・ルイ・バロー氏が演じました)の姿だと思います。特に第2部『白い男』で、顔を白く塗り、白いスモックを着て、白いゆったりとしたズボンを履く姿は、まさに私たち日本人が心に描くピエロ像そのものです。ずいぶん昔に見たきりなのですが、回り舞台に合わせてバチストがマイムウォーク※を披露する場面は印象に残っています。
 ドゥビュローというは19世紀前半のフランスで人気を博したピエロ芸人だったようです。彼が属していたのは下町にあるフュナンビュル座でした。「フュナンビュル」というのは「綱渡り」という意味で、その名の通り当時流行した綱渡りダンスやパントマイム芝居を売り物とする劇場だったようです。当時のパリでは「オペラ座」「コメディー・フランセーズ」などの体制派の劇場以外では、台詞のある芝居は上演できなかったそうです。台詞のある芝居によって反体制的な雰囲気が民衆の中に生じるのを、当時の政府が恐れたためです。下町の小劇場は常にイデオロギー化しないように監視されていました。
 ドゥビュローの父はフュナンビュル座で綱渡りダンスの芸人をしていました。ジャン・ガスパールはドゥビュロー家の長男でしたが、兄弟の中では最も軽業が不得意だったといいます。しかし、その喜劇性を認められピエロ役に抜擢されました。彼がピエロを演じて最初にヒットしたのは『暴れ牛』という作品です。ピエロの他にアルルカンやコロンビーヌというストックキャラクターが登場人物であるコンメディア・デッラルテ風の作品です。前任者に合わせたアクロバチックなピエロで、哀切な雰囲気とは無縁だったようですが、衣裳だけはドゥビュローが自分で考案したそうです。
 「ドゥビュローは袖が長くてゆったりとした、白いキャラコの上っぱりのようなものを身につけた。(略)黒い半球型の帽子をかぶり、その中に髪をすべて収めてしまった」(『ピエロの誕生』※より)
 観客のほとんどは庶民でしたが、ドゥビュローにはかなり知識階級、有産者階級のファンがいたといいます。かのジョルジュ・サンドもその1人です。彼はもともとアクロバットが苦手で、さらに喘息の持病も抱えていました。しかし、そんなハンデキャップこそが彼の個性になって、多くの観客、特に芸術家たちの心をひきつけました。そして、さらに彼は1人の青年を棒で叩き殺すという犯罪に手を染めてしまいました。彼のファン達の嘆願もあり、情状も酌量されて無罪になりましたが、それでも彼の悔恨はその演技にも影響したのではないでしょうか。その事件以外でも彼の生涯は不遇なものだったようです。最初の妻には先立たれ、その妻との息子も若くして亡くなります。2番目の妻とも不仲だったようです。喜劇役者の裏の顔が翳りや悲哀として芸ににじみ出し、皮肉なことにかえってファン層を広げることになります。結局、ドゥビュローは持病の喘息が悪化して亡くなるのですが、その少し前の引退公演には多くのファンが詰めかけ、カーテンコールでドゥビュローは涙を流したそうです。このイメージこそがまさに私たちが持っているピエロのイメージと言えるかもしれません。
 さらに70年代のフランスから当時流行したピエロの人形が日本にも輸入されます。ドゥビュローとどういう関係にあるかは不明ですが、これらの女の子や赤ん坊の姿をした人形もやはり涙を流していたようです。

※マイムウォーク 
 その場で歩くマネをすることです。マイムウォークには2種類あります。「プロファイル(プロフィール)・ウォーク」と「プレッシャー・ウォーク」です。前者は「横顔」 という意味で、主に真横を観客に見せて歩いているかのように見せることができます。胸を張り、足を前に蹴り上げるようにして歩くので、どちらかというと西洋風の歩き方です。『天井桟敷の人々』の中でジャン・ルイ・バロー氏が披露しています。後者はマ ルセル・マルソー氏がマイケル・ジャクソンに披露したことで知られる歩きです。かの 「ムーン・ウォーク」のヒントになったとかならないとか。これは前から風などのプレッシャー(圧力)がかかったような、一歩一歩を踏みしめる歩きなので、どちらかというと日本人の歩きに近いと思います。

※『ピエロの誕生』(田之倉稔/朝日選書303)
 ドゥビュローのことについては、すべてこの本を参考に書かせていただきました。フランス大衆演劇やピエロに興味のある方はぜひ読んでほしい本です。
 
 悲劇と喜劇

 もちろん、現代の日本の「ピエロ」はあまりこういう悲しいイメージを引き継いでいません。むしろ、切なさや哀愁とは無縁の屈託のない笑いを提供してくれる道化、つまりクラウン的な道化が中心です。しかし、一方で我々は悲劇と喜劇が紙一重であることも実感として知っています。人というのは本当に悲しいときには笑い、本当に可笑しいときには泣くことがあります。ドゥビュローのように優れたピエロ役者の演技に、どこか切ない人生の悲哀が透けてみえたように、繊細な感受性を持つあなたには、屈託のないクラウンの演技の中に深い悲しみを見つけることがあるかもしれません。
 これも余談ですが、私の敬愛するパントマイミスト、マルセル・マルソー氏※は舞台の上で本格的なパントマイムと「ビップ」というクラウンのキャラクターを演じ分けていました。それは日本の能と狂言のように、悲劇と喜劇を演じ分けるのです。マルソー氏が来日したときに、たった3日ですが指導を受けたことがありました。指導の途中、氏は「心臓を食う男」(正確な題名ではないかもしれません)を演じて見せてくれました。身も凍るような恐ろしい悲劇でした。生身の人間から心臓を取り出し、掌の上においたときにマルソー氏が発する「シャアシャア」という音が今も耳に残っています。それを食らうときの氏の表情もはっきりと覚えています。その一方で、氏の演じる「ビップ」の明るさはどうでしょう。そこには、氏がパントマイムを指導するときの鷲のような眼光と最終日に好物の寿司を前にして見せた子どもような無邪気な眼差しとの対比と同じように、マルソーという人物の中のこの二つのアンビバレントな人格が、まるで月の明暗のように美しく繊細に表現されていました。人生の深い悲しみと喜びを二つとも味わいつくした人でなければ、このような表現ができるはずがありません。そしてドゥビュローそしてピエロというキャラクターにもこのような人格が反映しているにちがいありません。

※マルセル・マルソー氏  
 氏はドゥビュローを演じたジャン・ルイ・バロー氏と同門。2人ともパントマイムの中興の祖と言われるエチエンヌ・ドゥクルー氏(「天井桟敷の人々」ではドゥビュローの父親役)の弟子です。
                                                                                   おわり

↓ 日本ピエロの原型がここにあります。


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↓ クラウンとピエロをより深く知りたい方にオススメ。


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クラウンとピエロ(2)

クラウンとピエロ(2)

 ピエロ恐怖症

 ロシアのサーカスにも「クラウン」がいます。かつてはサーカスと言えば、馬の曲乗りだったそうですね。馬が脚を痛めないように会場の地面は砂やおが屑が一般的でした。だから、人間の芸の時にはいちいちカーペットを敷いていたそうです。そして、それがクラウンの役割でした。ですからロシアではクラウンのことを「カビョール(カーペット)」と呼ぶのだとか。しかし、このサーカスクラウンにはもう1つの大事な役割がありました、それは、曲芸で起こってしまった事故の後に出てきて、観客に今起きたことを忘れさせることです。「クラウン」たちは、今起きた事故の衝撃や動揺を心の中に封じ込め、陽気なバカ騒ぎを繰り広げます。「あんなにふざけたことをやっているんだから、事故はきっと大したことなかったんだ」と観客に信じさせれば成功です。多くの観客はまんまと騙されて、テントを出るときには事故のことなどすっかり忘れ、笑顔と興奮だけを土産に家路につきます。しかし、ほんのわずかの、繊細すぎる感性を持つ観客、つまり幼い子どもなどは、そこに何かしらの翳りや悲哀を見てしまうのでないでしょうか。
 私は幼い頃「ピエロ恐怖症※」でした。今でも自分以外の「クラウン」は苦手です(笑)きっかけは幼い頃、両親と一緒に見た「大西部サーカス※」でした。会場がどこかは忘れてしまいましたが、フェンスで囲まれた広い場所で、西部劇さながらの曲乗りや決闘、駅馬車襲撃、インディアンとの戦いなどが演じられたのを今でもよく覚えています。とりわけ強く印象に残っているのは絞首刑です。1人の犯罪者が馬に乗ったまま首に縄をかけられ、誰かが馬の尻を叩くと馬だけが走り去って、乗り手はぶらんと2本の柱の間にぶらさがります。私はフェンスにかじりつきその光景をふるえて見ていました。次の演目であるクラウンの演技の間も、私の脳裏には初めて見た絞首刑の映像がこびりついており、あの人は本当に死んでしまったのではないか、それなのに両親も他の観客もなんでクラウンたちを見て大笑いをしているのか、そんなことを感じ考えていたのだと思います。ですから、演目が終わり1人のクラウンが回って来て私に握手を求めてきた時、思わず怖いと思って両親にすがりつきました。あんな残酷なシーンのあとにニコニコ笑っている顔が恐ろしかったのです。今思うと残酷なシーンを見た観客への配慮なのでしょう。両親はしきりに握手に応じさせようとするのですが、私は頑なに拒みました。やがて諦めたように去って行くクラウンのさびしそうな顔。それは今も忘れることができません。

※「ピエロ恐怖症」
 ピエロを極度に恐れる子どもや大人がいます。特に子どもは泣きわめき、逃げ惑いま  す。何年か前に「ヤマンバ」メイクの男性が観客にいて「あたしよりスゴーイ」と言  われた時には傷つきました。まっ、すぐに友達になりましたけど。それにしても「ヤ  マンバ恐怖症」とか「ふなっしー恐怖症」なんてのもいるんじゃないですかね。

※「大西部サーカス」
  1962年の夏に東京体育館などで上演されたサーカスです。私も都内で見たことは  間違いないのです が、東京体育館だったかははっきりしません。


 「Send in The Clowns(クラウンを出して)」

 バラードの名曲に「Send in The Clowns(クラウンを出して)」という曲があります。作詞は『ウェストサイド・ストーリー』で有名なスティーヴン・ソンドハイム。彼の代表作『リトル・ナイト・ミュージック』の中で切ない恋の歌として歌われます。ヒロインの役柄が旅回りの女優という設定なので、「クラウン」には馴染みがあるのかなと想像するのですが、なぜ「Send in The Clowns(クラウンを出して)」と繰り返すのかは解釈が難しいようです。「クラウンを出して!」と言うのは、綱渡りに失敗して落下した女性だと説明する人もいます。事故を起こしてしまった本人が、痛みに耐えながら周囲の仲間に訴える言葉だというのです。でも、この歌のシチュエーション、つまり妻帯している昔の恋人に切ない恋心を打ち明ける場面とマッチしません。失恋を予感した彼女が「こんな暗い場面にはクラウンが必要だわ」という思いを表現したものなのか、あるいは誰かに失恋の悲しみを癒してほしいということの暗喩なのでしょうか。とにかく、この歌での「クラウン」の役割もまた、けして明るく楽しいものではなく、人生の悲哀を感じさせる切ないものです。
 これも余談ですが、静岡の大道芸ワールドカップに行ったときに、珍しくクラウンのコンビ(日本人ではありません)が出場していました。彼らのパフォーマンスのあとで、アクロバットの男女がやって来たのですが、投げ銭を集めたり観客と握手している彼らをアクロバットの女性が、大声で叱ったのを見ました。言葉は分かりませんでしたが「邪魔よ。早く消えなさい」と言っているのは明らかでした。掌を翻して「シッシッ」と追い払う感じです。そして、クラウンたちは大きな身体(2人とも大男でした)を丸めて、すごすごと退散したのです。これは彼らだけの特別な関係性なのかもしれません(不仲だとか、その女性が苦手だとか)が、あるいは西洋におけるクラウンの地位というのは、他の芸人より低いのかなという感想を持ちました。「のろま、田舎者」というのが、単なる客向けの呼称ではなくて、実質的な階級にもつながるものかもしれないということです。この点については単なる私の推測に過ぎません。誤解があれば訂正していただけると助かります。

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クラウンとピエロ(1)

クラウンとピエロ(1)

 クラウンの心得

 日本では道化師のことを誰もが「ピエロ」と呼びますね。しかし「ピエロ」という呼称は日本独特のものなのだそうです。英語圏では「クラウン(CLОWN)」。これは「のろま、田舎者」という意味です。このことを知った私は、何か妙な使命感にかられて「クラウン」という呼称を広く知らしめようと、あちこちで触れ回っていました。「ピエロは間違いですよ、クラウンというんですよ」と。でも、どこへ行っても「ピエロのクラウンQさんです」と紹介されてしまいます。子どもたちも可愛く「ピエロさ~ん」と呼んでくれます。そのうち「ピエロ」でも「クラウン」でもどうでもいいなと思うようにもなりました。日本人にとって「クラウン」より「ピエロ」の方が愛着のある呼び名なら、その方がお客さんにとって心地いいなら、それで何の問題もないのです。
 クラウンになろうと思い立ったころ、プロのクラウンさんとネットで知り合いました。そのときにいただいた助言の一つひとつがクラウンとしての私の土台となっています。中でも「All for you ,It's my pleasure」というクラウンの心得は、深く胸に刻んでいつも自分自身に問いかけるようにしています。「自分本位になっていないか、すべてお客さんの喜びを中心に考えているか」というようにです。この言葉を教えていただいたとき、そのクラウンさんはこんなこともおっしゃっていました。「子どもがもしあなたを怖がって泣いたらどうしますか。手を替え品を替えなんとかその子を笑わせようとあなたはするでしょうね。でも、それはまちがいです。もしもあなたの顔や姿を見て子どもが泣いたら、あなたは顔を手で隠し、どこかへ立ち去るべきです。それがこの言葉の意味です」と。だから、「クラウン」でも「ピエロ」でもいいのです。お客さん、中でも子どもさんが気軽に呼べる名前でいいのです。

クラウンとクラウン?

 しかし、それはそれとして「クラウン」と「ピエロ」は何が違うのでしょう。これについては多くの人が説明を試みていますので、今さら私ごときが発言することもないと思うのですが、話題にした責任もありますので、一応私見を述べておきます。

 まず、「クラウン」です。「のろま、田舎者」という意味であることは前に書きましたが、これって明らかに差別的な呼称ですよね。相手をバカにするときに使います。ふつうは自分でこう名乗る人はいません。しかし、「クラウン」たちはあえてこの呼称に甘んじています。いや、むしろみずから「のろまです」と名乗っているのです。私の場合も「田舎者のQでーす」と、大声でふれまわっています(笑)
 つまり、自分から「のろま、田舎者」を演じることで、お客さんの優越感をくすぐり、「あいつ馬鹿だなあ」という笑いを引き出す。これが「クラウン」なのではないでしょうか。初対面の相手にはたいていの人が、なにかしら警戒したり、緊張したりするものです。その警戒や緊張を一瞬のうちに解き、完全に心を開かせるための呼び名と言ってもいいでしょう。相手は「のろま」だと分かっているのですから、そんなに警戒も緊張もいらないのです。そんな屈託のない笑いの提供者が「クラウン」だと思います。
 チャップリンに代表されるような、紳士の出来損ないのコスチュームを身につけている「クラウン」がいます(私もこれを意識しています)ダービーハットは紳士のたしなみですが、燕尾服は小さすぎ、ズボンは逆にダボダボで、丈がツンツルテン。一応ネクタイはしてるけどデザインが変。靴は明らかに大きすぎる……という格好です。昔の日本人なら「やつす」という言葉で表したでしょう。本来の自分の正体を隠し、あえてみすぼらしい格好をして、相手を油断させるための工夫です。もちろん「クラウン」の場合は相手を油断させ、リラックスさせて自然に笑わせることが目的です。他にも首にヒラヒラのついた赤ん坊のような衣裳の「クラウン」や子どものように半ズボン、サスペンダーの「クラウン」がいます。こういう衣裳もまた、お客さんに安心感や優越感を抱かせるようにできています。
 しかしながら、「クラウン」=「のろま、田舎者」と直観的に理解できるのは、あくまで英語圏の人々だけです。日本人のほとんどはそう理解できません。ためしにネット検索してみると、ほとんどが某社の車のことでした。私たちの「クラウン」という言葉への感覚も同じです。ちなみに車の「クラウン」は「CRОWN」で道化の「CLОWN」とは一文字違いです。意味は「王冠」。王様が頭にのせてるアレです。これってかなり皮肉が利いてますよね。英語がへたな私などが発音したら、「L」と「R」の発音ですから、英語圏の人にはどちらのことを言っているのか分からないでしょう。つまり、「道化」と「王様」がごっちゃになってしまいます。これってまさか偶然なんてことはないでしょう。実際、中世のヨーロッパの王宮には「ジェスター」と呼ばれる宮廷道化師が王様のそばに侍っていたとか。そして、彼らは王様のペット的な存在でありながら、人間扱いされていないがゆえに勝手なふるまい、たとえば王様に対等にものを言うことが許されたそうです。また、誰も告げたくない凶事を王様にもたらすのもこの道化師たちの役割だったようです。シェークスピアの「リア王」に出てくる道化「Fool」(愚か者、ばか者)がまさにそれです。「えーそんなこと言っちゃって大丈夫なの?」ということを王様に対して言っています。でも、けして王様を見捨てません。ずっと王様のそばに居続けます。まるで王様という存在の一部でもあるかのように。もちろん、このことは「クラウン」という名称と直接はつながりませんが、誰かがあえて「道化」と「王様」を混同するように仕組んだ名称であれば面白いと思います。
 屈託なく観客を笑わせる「クラウン」という名称とその存在は、実は知的な計算と風刺によって生み出されたものなのかもしれませんね。
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